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教育祭のあゆみ
1934(昭和9年)年11月22日に教育塔建設を帝国教育会の事業として決定した後、建設のための寄付金募集や補助金の要請、塔設計図、及び壁面嵌装浮彫の懸賞募集が行われ、翌年9月に地鎮祭、そして1936年10月に完成を見ました。

第一回教育祭は、1936年10月30日に執行されました。教育祭には、文部大臣や宮内大臣はじめ、大阪府知事、大阪市長など行政関係者や各界の代表が出席し、神式による式典の後、永田秀次郎帝国教育会会長による挨拶があり、ラジオ放送により全国中継されました。

第一回の教育祭では、室戸台風の犠牲者のみならず、学制発布以来の犠牲者(当時は殉職者)と併せて、学校教育時間内において不慮の災厄で死亡した児童・生徒・学生を慰藉することになりました。(教職員137名、児童・生徒・学生ら1,435名 「教育塔誌」より)

時あたかも第一次大戦後の世界恐慌の中、日本も不況に見舞われ、特に農村部では厳しい生活を強いられていました。そのため、中国への開拓移民や満蒙開拓青少年義勇軍の募集が行われていました。このような中、国威発揚のために教育も戦争遂行の積極的な役割を担わされました。

この頃の教育祭の式辞や挨拶では「教育盡忠」「教育報国」などの言葉が使われたり、職務遂行中での犠牲者を「殉職」として賛美したり、「英霊」として合祀されることが当たり前の世の中でした。

また、教育祭では追悼のための式典だけではなく、教育祭に併せて、教育大会や講演会、体育大会なども併せて行われていました。

1944年の第9回教育祭からは「大日本教育会」が主催しましたが、その後、1948年からは「日本教職員組合」が主催しています。同時に教育塔の維持管理も引き継ぐこととなりました。

戦後は、戦争によって命をなくした多くの学校関係者、児童生徒・学生を追悼するとともに、1960年には沖縄戦でなくなった人々を特別合祀し、平和を守り命を大切にする祭典としての再出発と塔の保存、式典の改革に力を入れてきました。

また、毎年のように起こる自然災害や交通事故など人為的事故、学校事故による悲惨な出来事を繰り返すまいと国や都道府県行政への働きかけなども行い、通学時の事故を減らすために歩車分離式信号の増設も進められています。

近年の出来事では1985年の日航機墜落事故の犠牲者の方々や阪神淡路大震災の犠牲者、新潟中越地震で亡くなられた方、東日本大震災で亡くなられた方、またO157での集団食中毒でなくなった児童等を特別合葬しています。
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